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まったりすぎて昼に3度寝、編集長です。 フレーズ的にずんの飯尾が言いそうな語感ですな。 さて、「廃キング」第2夜。 タイトルに「廃」の字を用いるあたりで、 廃墟マニアのみなさんにはおなじみ、 マイントピアの駐車場から登れる鹿森社宅跡をハイキング。 軽い登山とも言う… 簡単な表示看板から石段と山道を延々と歩き… 記念碑に到着した頃には汗ダクダク。 ポロシャツの下に着ていた長袖Tシャツを脱ぐ。 山で上半身ハダカになるのだが、 マイントピアの賑わいとは裏腹に、 ここにはワタクシ一人のみ。 道中聞こえていたマイントピアのアナウンスや、 子供たちの歓声もここまでは聞こえない。 聞こえる音は風の音と、木々のせせらぎ、 たまに鉱山列車の蒸気音、そしてトカゲが草擦る音…。 個人的な感想として、 脚光を浴びる「東洋のマチュピチュ」こと東平が「産業遺産」なら、 こちら鹿森は「生活遺産」とでも言いましょうか… 東平の鉱業設備跡より、生活臭が強い鹿森社宅跡。 鉱夫だけでなく、その奥さんお子さんなど 実際に生活されていた人々が歩いた石段、火をつけたかまど、 入ったお風呂… 今の生活にも通じるので身近に感じる。 しかし、東平ほど派手さも無いため、「森に還る街」の現在進行形。 地理的要因などもあるのでしょうが… 鹿森社宅閉鎖から約40年。 あと何十年かすると、完全に森となりそうな雰囲気…。 ところで… 東平の閉鎖が昭和43年。鹿森閉鎖が昭和45年。 この2地区は別子銅山の歴史の中では比較的新しいので、 当時の生活や文化的な写真が多く残され、 東平歴史資料館、別子銅山記念館などにも展示されている。 「当時の写真がこんなによく残っていたな」 と思っていたのだが、 以前に別の取材の際、ある方から興味深いお話を聞いた。 各所に展示される写真の撮影者。(仮にA氏とする) A氏は住友系企業の保安部署に所属。 業務上、東平、端出場など各所の業務関係の写真を 撮影することに従事していたそうだ。 昭和30〜40年代なんてカメラは高嶺の花。 サラリーマン個人で購入するにも高価だし、 会社が保有する「業務用カメラ」ですら少なかったと考える。 そんな中、A氏は業務途中に「生活写真」も数多く撮影、 社内の現像設備や印画紙なども使っていたそうだ。 通常業務と関係のない写真なので、本来いけないことなのだが、 実は会社もこれらの写真撮影を公認していたとか。 その代わりに、住友重役のご子息の結婚式などにも A氏は写真係としてかり出されたりした…とも聞いた。 お話頂いた方はこうも例えた。 「昔のお殿様は、絵師、陶芸師などを藩で抱えていた。 写真を芸術とするならば、A氏も企業が抱える「写真師」。 住友には、当時そんな芸術に対する風土が残っていたのだと思う」 真相は定かではないが、数多くの写真が残されることにより、 東平や鹿森を訪れても、当時と今を比べることができる。 当時を懐かしむ人もいるだろうし、 当時を知らない私たちも、歴史を知ることができる。 もしかしたら、これだけの写真が無ければ、 産業遺産・生活遺産として資源化されず、 このまま「森に還るだけ」だったのかもしれない。 時間が止まる場所、鹿森社宅跡。 タイムマシンにでも乗ったような感覚を覚える。 止まった時間の隙間から「青龍橋」が見え、「平成」に戻された。 山を下りるほど、アナウンスが聞こえ、歓声が聞こえ… 「今」という現実が近づいて来る。 さらに、山根公園まで歩いて帰る現実も…。 すでに足はガクガクなのに…。 フリーペーパーHoo-JA! オフィシャルサイトへ
by hoo-ja986
| 2011-05-06 03:52
| 編集長
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